産地だより 2018年9月

2018年9月
青森県黒石市
野菜くらぶ青森(キャベツ、レタス、リーフレタス)
代表生産者 山田 広治さん

野菜くらぶ青森の拠点、八甲田山麓の黒石市沖揚平。近隣には、冬場の積雪が5mを超えることもある名湯、酸ヶ湯温泉があります。自然環境の厳しいこの地で、短い夏の期間に、キャベツ、レタスなどを出荷している協力農家さんたちがいます。今回の産地だよりは、県外からこの地に飛び込んで、農業経営者として奮闘している山田さんのご紹介です。

沖揚平 開拓の歴史

八甲田山の中腹、標高750mに、沖揚平(おきあげだいら)はあります。
この地は1948年に、戦地から戻られた方々と山形からの開拓団19戸が入植して開拓がはじまった地域です。その2年前、開拓の先発隊の団長としてこの地に入ったのが、野菜くらぶ青森のメンバー、葛西龍文さん、成田真理乃さん兄妹のお父さまだったそうです。
約800ha(東京ドームで約170個分)ある沖揚平のジャングルのような原生林の中で、木を切り、土地をならし、家を建てました。出稼ぎや森林作業で収入を得つつ、4~5年を基盤づくりに費やしましたが、その間に入植者は半数になっていたというのですから、いかに開拓が厳しいものであったかがうかがえます。
冷蔵、輸送技術が十分に発達していない1965年頃、高冷地である沖揚平産の野菜は、夏場の希少な生鮮野菜の産地として一時代を築きます。しかし、その後の技術の進歩、輸入野菜の増加、畑での連作障害の発生など、高原野菜産地としての沖揚平の状況は、徐々に厳しいものとなっていきます。

遠くに青森の街を望む、沖揚平の風景

遠くに青森の街を望む、沖揚平の風景

沖揚平 開拓の記念碑

沖揚平 開拓の記念碑

群馬県から、野菜くらぶの参入

そんな状況の中、2001年頃に、モスの協力産地としてもお馴染みの、群馬県の株式会社 野菜くらぶ代表の澤浦さんと、今回の主役、山田さんの2人が、「沖揚平で野菜作りをしたいので農地を貸してくれないか。」とやってきたそうです。
「最初は、東京の怪しげな会社の社長が秘書を連れてやってきたと思ったよ。(笑)」と葛西さんは言います。
開拓に携わった人たちで結束を強めて生きてきた沖揚平の人々にとって、移住者を受け入れ、大切に守ってきた畑を見知らぬ人間に貸すというのは、大きな決断でした。話し合いの機会を何度も持ったものの、なかなか同意は得られませんでした。しかし自らの手で木を切り、畑を作り、守ってきた人々は、沖揚平の将来のことも考え、同じ想いを持って訪ねてきてくれた澤浦さん、山田さんたちを受け入れてくれました。
2002年には、沖揚平でレタスを作っていた葛西さんが、野菜くらぶ青森のメンバーとしてモスにリーフレタスを出荷。2003年からは、沖揚平に移住してきた山田さんも、レタスの出荷をスタートさせました。現在は、地元の農家さん3軒と、山田さんのように県外から移住してきた2軒でグループを組んで、モスにキャベツ、レタス、リーフレタスなどを出荷しています。

葛西龍文さん

葛西龍文さん

成田真理乃さん

成田真理乃さん

山田広治さん ご紹介

山田さんは今年で47歳。神奈川県藤沢市の出身です。「どちらかというと畑より海、農業に触れる機会もなく、興味があったわけでもなかった。野球が大好きな普通の都会っ子だった。」そうです。
学生時代に、開発途上国への国際貢献に興味をもち、世界各地を渡り歩いたそうです。
大学3年の時にフィリピンで参加したスタディツアーでの農業研修の経験が、山田さんのその後の人生を決定づけたそうです。「原始的な農業で、水牛を使って畑を起こし、すきかけして、種を蒔いてという簡単な作業でしたけど、土をいじることすらほとんど初めて。とても気持ちよかった。」と山田さんは言います。
卒業後は、農業学校で理論と実践を学び、力を付けたうえで、27歳の時に、青年海外協力隊の野菜栽培指導の隊員として、アフリカのボツワナ共和国に渡ります。
ボツワナでは、政府が立ちあげたモデル農園の運営アドバイスを軸に、井戸掘り、野菜栽培の指導、販売の指導など、現地の方々と協力しながら活動し、激動の2年半を過ごしました。

野菜くらぶ青森の集荷場

野菜くらぶ青森の集荷場

取材を受ける山田さん

取材を受ける山田さん

農業経営者として独立

日本に帰国した時には、既に、「農業で身を立てる」という決心が固まっていたそうです。
帰国して、新規就農者のマッチングイベントに参加した際に、運命的な出会いをしたのが、株式会社 野菜くらぶが募集していた、第1期独立農業者支援プログラムでした。
モスにレタスを出荷している群馬県の篤農家さんのもとで1年間みっちりと研修を積んだうえで、翌年からは、山田さんにとって縁も所縁もない青森でのレタス栽培に挑戦するという難題に取り組むことになります。
「ここで、青年海外協力隊での経験が生きたと思います。日本で農業技術を学んで、アフリカで指導することができた。という経験があったので、自分は青森に行っても何とかやっていけるという根拠のない自信のようなものがありましたね。」と山田さんは言います。
山田さんが独立後に設立した農業法人の名前は、有限会社 サニタスガーデンといいます。
「ボツワナに居た時に、カラハリ砂漠のオアシスにある緑豊かな、レストランを併設した素敵な農場があったんですよ。その農場の名前が“サニタスガーデン”でした。いつかは自分もこんな農場を持ちたいなぁ~、という思いから会社の名前を付けました。」
山田さんのサニタスガーデンも、少しずつ、その理想に近づいていると思います。

山田さんのキャベツ畑

山田さんのキャベツ畑

生育状況を確認する山田さん

生育状況を確認する山田さん

沖揚平での経験

県外から沖揚平に移住してきて農業を始めた山田さんの日々は、決して順風満帆ではなかったそうです。「移住して5年間くらいは、今だから言えますが、現地の方々とはなかなか意見が合わなかったですね。」と山田さんは言います。今でも、春と秋に、村の人たちと集まって情報交換をする機会を持っているそうですが、当初は、「どうせ長続きはしないだろう。」と言われ続けたそうです。
「沖揚平は、よそ者がどんどん入ってくるような土地柄ではないですからね。自分たちだけで、原生林を開拓してきた自信もあるし、自分たちがやってきたことにとても誇りを持っています。僕は、そんな中にポツンと飛び込んできた異分子ですから。」と山田さん。
「僕は、沖揚平から山を下った標高の低い畑で、春の早くからレタスを作付けするなど、地元の農家さんがやらないようなことをどんどんやってきました。地元の方々からは、なんでそんなことをするんだ?と批判も浴びてきました。素直に村の皆さんの言うことを聞いて上手く立ち回っていればよかったかもしれません。僕自身、そんなことは出来ないから止めろ。と言われたことを、結構やってきてしまったと思います。」と山田さんは言います。
潮目が変わったのは、沖揚平に約7haの農地を買ったことが大きかったそうです。
「僕がこの地で根を張って農業をやっていくんだという決意が、皆さんに伝わったのだと思います。」と山田さんは言います。
時は流れ、今では、村の役員も任されるようになったという山田さん。
長い年月はかかりましたが、すっかり地元の信頼を得られるようになりました。

品種名は「初恋」

品種名は「初恋」

八甲田山を望む山田さんの畑

八甲田山を望む山田さんの畑

キャベツ作りのこだわり

9月上旬に収穫している品種が「初恋」、その後9月頃に収穫する予定の品種が「青琳」だそうです。
「こだわりというこだわりが特にないのが、僕のこだわりかもしれません。だからこそ、
よりよい食味、品質を求めて、新しい手法を取り入れて、毎年毎年、少しずつ変化させていると思います。」
そんな山田さんの今年の新たな取り組みはというと、キャベツ畑にビニールマルチを引いて畝を作るときに「局所施肥」をするようにしたそうです。
「畝の中に、局所的に微量要素を施肥することで、キャベツの根が吸いやすいように工夫をしました。ここ数年の異常気象で、高温、低温、多雨など、野菜に過度なストレスがかかるようになってきました。収穫をしていて、キャベツに内部の傷みがあるのではないか。と心配をしながら取り組んできました。ミネラル分の局所施肥をするようになってから、内部の品質がよくなってきたと実感しています。」と山田さんは言います。
新たな農法の取り入れにより、山田さんの栽培技術は、また一歩、成長したようです。

株式会社 野菜くらぶの毛利さんと山田さん

株式会社 野菜くらぶの毛利さんと山田さん

山田さん、成田さん、葛西さん、勢ぞろい

山田さん、成田さん、葛西さん、勢ぞろい

山田さんからのメッセージ

モスさんにおいしい野菜を安定的にお届けできるように、もっともっと、栽培技術を高めていきたいですね。また、いま僕の会社には若手の社員もいるので、みんなが幸せになれるような会社にしていきたいですね。
僕たちと一緒に農業をやりたい!という熱い若者がいたら、ぜひ、青森に来てください!

Text by Sato